いまにも風に飛ばされてしまうのではないかと思わせる危うげな線の細い、それでいて可憐な花。
何年経っても、そこに咲き続けていてくれる強さを持ち合わせる。
彼女への印象は、昔からそんな印象を持ち続けている。
今回はシンガーソングライターのCoccoについて記してみます。
Coccoのプロフィール
Cocco
愛称:あっちゃん
誕生日:1977年1月19日
出身地:沖縄県那覇市
デビュー:1996年~
Coccoの歴史
1977年1月19日、この世に生を受けた彼女。
そんな彼女は自分の音楽を、自身の“排泄物”だと表現しました。
ここからは愛を込めて“あっちゃん”と呼ばせていただきます。
あっちゃんの幼い頃からの夢はプロのバレエダンサーになることでした。
来る日も来る日も練習を重ね休みの度にダンサーのオーディションを受けていました。
そんな時、姉に教えてもらったある一つのオーディションに参加することになります。
その新人歌手発掘のオーディションは選考が進むと東京での審査のために交通費がもらえる。
また、賞金でオーディション費用をまかなうことができるという不純な動機がきっかけで受けることを決めました。
結果的にはどちらも不合格となりましたが、この時の彼女の歌にひっかかりを覚えたスタッフとのご縁が後々あっちゃんの運命を変えることになります。
沖縄まで彼女を探しにきて、歌手にならないかというスタッフに向かって
「高校を卒業したら、バレリーナになる予定なので」
と宣言したあっちゃんでした。
しかし、その後当時のディレクターとのご縁があり
「歌でいけるなら、ダンサーで自分を落とした人間を後悔させてやる!」
と思い立ち、音楽の世界に進むことを決めたことが大きな転機となりました。
とはいえ、当時のあっちゃんは楽譜も読めず、歌うことなんて、学校のイベントでちょっと歌う程度でしかなかった自分がシンガーソングライターになるとは思わなかったと言います。
1996年に【Cocko】名義で全米インディーズデビューを飾り、翌年1997年に現在の【Cocco】に改名してメジャーデビューしました。
当時の音楽シーンの中では特異な存在として取り扱われることも少なくなかった、あっちゃん。
“病んでいる””自殺したくなる音楽らしい”など好き勝手な表現をされていた時期もありました。
むしろ、いまだにそういう負のイメージを持っている人もいるとは思います。
それでも、第一線で人気を持ち続けていられるのは、そういう認識の人以上に、あっちゃんの歌に救われている人が多いことの証明だと思います。
あっちゃんの音楽は気づいたら毎日毎日体の中で鳴り続けているものであり、翌日には忘れているもので、いわゆる”排泄物”と同じだと、言いました。
なので、音楽が仕事になった時に、自分の中でズレが生じ始めていました。
制作してリリースされるまでの間に、あっちゃんの心の中にはもう違う音楽が溢れていて。
他の曲が歌いたくなっていて、まるでそれは聞き手に嘘をついてるかのような感情であったと言います。
また、ライブやイベントなどを重ねていく中で、日に日に
「寂しい、もっとみんなといたい。」
と感じるようになった時に、自分の気持ちに気づいたと言います。
「このままでは歌えない」と。
不純な動機で始めたきっかけの部分を一度壊して
「歌うことが好きだ」
という気持ちを軸にして立て直さないといけない、という思いから
2001年、人気絶頂の最中あっちゃんは表舞台から姿を消しました。
姿を消したというものの、舞台や映画の主演、絵本をだしたりと、様々な表現方法を手にして活動は続けていました。
また、お金の損得など関係なく好きに音楽を作っていたことにより、それがリハビリとなっていたことと、再度スタッフがこれでもかというほどに熱心に誘い続けてくれたことであっちゃんは2006年に復帰ということで表舞台に帰ってきてくれることになりました。
そんなあっちゃんのたくさんのヒット曲がある中でいまだにAimerや柴咲コウなど、たくさんのアーティストに愛されカバーされ続けている名曲“Rainning”の歌詞の意味について、自分なりに考察をしてみたいと思います。
もろく壊れやすい心を、包み込むは優しい雨のような彼女の歌”Rainning”の歌詞の意味
この歌はCoccoの書いた小説「ポロメリア」などで話されている通り100%実話だと言います。
あっちゃんは、外で遊ぶ、元気いっぱいやんちゃな子供でした。
そのため、現在の黒髪の印象とは違い、赤い色をしていました。
そして、なぜかわからないけれど、髪の毛を切り落として、坊主にしました。
なにも、いらない
なにも、できない
私とは一体?
皆さんも、こんな気持ちになったことがあるのではないでしょうか。
考えても考えても答えの出ない考えが頭を占領して、そんな私を照らす太陽すら味方になってくれてるとは到底思えないほどの思考の狭さ。
そんな時に鼻腔をつく、優しいにおい。
それはきっと、夕飯のにおいだったり、お風呂のにおいだったり、帰り道に感じられる自分以外の人間の生活しているにおい。
そんなささやかな、自分のためにあるにおいではないけれど、包まれるような気持になれる。
でも、なぜだろう?
坊主にした「私」を笑う自分以外の人間たち。
元々自傷行為をしてしまう癖があったというあっちゃんは、坊主にして、切るものがなくなりました。
いいえ、彼女にとってはまだまだあったんです。
自分自身の肉体を切りました。
腕にできた、切り口から流れるその温かい血で、生を感じるしかなかった。
生きている、私は生きている。
華奢な体を、ぬくもりとともに躍らせました。
それでも、やっぱり太陽はそこにいるだけで強いエネルギーを発し続けています。
泣くことで自分を解放出来たり、悲しみを紛らわせられる部分があります。
現実にそこにある太陽が照らす世界は、広く大きく美しく。
自分だけが「ここ」に置きざりになる感覚。
気づいたら自ら溢れ出すメロディー。
雨だったら、悲しみも涙も流して、誰からも隠してくれるのに。
現実は、晴れ、太陽は、存在します。
そうです。
結局生きないといけないんです。
生きているんです。
それがどんな方法でも、形でも生きるんです。
太陽が無条件にエネルギーをぶつけてきていても。
帰り道のにおいに救われる日だって、雨の中涙を流す日だって、あっていいのです。
病んでる、怖いなどと言われるあっちゃんですが、彼女はただ生きているだけなんです。
その生きる方法の一つに音楽があった。
そして、その音楽に救われ続ける人たちが今もいる。
そう、これは、祈りの歌。
どうか、未来の誰かの支えになりますように。
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